平野薫インタビュー
古着の衣服や傘などを糸の一本一本までほどき、結び直して再構成する繊細なインスタレーションを手がける平野薫。その作品は、かつてそれを使っていた誰かの痕跡や記憶、そしてその背景にある歴史をも浮かび上がらせます。布を扱うようになったきっかけ、そして自身の痕跡や記憶から他者の記憶、場所の歴史へと関心が広がってきた背景などを伺いました。
——平野さんは、長崎のご出身で、広島市立大学への入学を機に広島に移り、現在は広島を拠点に制作をされています。大学生時代のことから伺ってもよろしいですか。
大学ではデザイン工芸科に進みました。漠然と絵を描く仕事ができたら、という思いがあったのですが、3年生で専攻を選ぶ際、「空間造形」(現在の「現代表現」)研究室を選び、そこでの経験が今につながっています。その後、大学院に進んで修士一年生の時に作った作品《self portrait》(1999)が、布に残る「気配」に着目した最初になります。白い布からパジャマを4着作り、皺の跡が残るように樹脂を塗って一晩着て寝た後、寝ている間の自分の痕跡がシワとして残ったパジャマをバラして展示した作品になります。
——布を素材として扱うようになったきっかけや理由はありますか。
私の母親が洋裁をやっていて、布から服が作られる過程を小さな頃からそばで見ていたのと、布の切れ端でよく遊んでいたこともあって、布は近い存在でした。《self portrait》の時は、寝ている間の自分の存在を確かめたいという思いがあり、その方法としてパジャマを作り、布に自分の存在の痕跡を残すというやり方を選びました。
この時、一晩着て寝たパジャマを解体する際にミシン糸が出てきたのですが、それが、最終的に作品として展示したものよりも綺麗に感じられたんです。真新しい糸と、バラした時に出てきた糸には明らかな違いが感じられ、それを美しいと感じたのは、布と糸とでパジャマを作り、それを着て一晩寝るという過程がそこに含まれているからだろう、と。その時は布の方をメインで見せたのですが、布の中に記憶や痕跡が残っているなら、布をバラしたものの内にも記憶なり痕跡が残っているのではと思い、次の作品《pajamas》(2000)では、パジャマの布をほどいて作品化しました。
——《pajamas》では、パジャマをほどき、ほどかれた糸がベッドに巻き付いているような見せ方になり、そこからさらに糸だけを見せる方向に変化していくと思うのですが、そうした変化のきっかけはあるのでしょうか。
《pajamas》では、ベッドの下に絨毯を敷き、部屋として見せることで、空間性や「寝る」という行為も意識したのですが、それらが無くても、布自体が記憶しているものがあるということを信じたいと思うようになったのだと思います。また、大きな作品は物理的に保管や移動の難しさを伴うので、よりコンパクトな形を模索する必要性も当時は感じていました。
——《pajamas》は、一本一本の糸よりも、ベッドなど物量のある「もの」の印象が強く感じられます。その後、服をほどいて糸だけを見せるようになることで、作品の「もの」としての存在感はより繊細に、ある意味頼りないものになっていくのですが、逆に糸がはらむ目に見えない要素が前面に出てくる印象を受けます。
布に宿る痕跡や人の記憶といったものは、具体的に存在するというよりは、何か「感じるもの」としてあるように思います。作品制作を通して、在るのか無いのか分からないものの「在り方」を、布に残る痕跡をほどきながら探しているんだろうな、と自分では考えています。
——平野さんは大学院終了後、アメリカ合衆国やドイツでも滞在制作を経験されますが、住んでいる場所によって、素材の選び方に変化を感じることはありましたか。
学生時代の「自分」からはじまり、徐々に友人からもらったものをほどくようになり、卒業後5年ほど住んだ横浜では、そこに住む親子の服で作品を作りました。ニューヨークでも、そこで見つけた古着で作品を作り、それぞれの都市に住む人の肖像として見せるということを行いました。その後、ベルリンに6年住み、比較的ゆっくりと「暮らす」という経験の中で、ベルリンの街について考える機会も多くありました。ベルリンは東西に分断された時代があり、私が当時住んでいた家も、ベルリンの壁があった場所の近くの、元々東ドイツだった地域にありました。築年数100年以上の古い建物の4階に部屋があり、窓から周りを見渡せたのですが、作品を作っている部屋からベルリンの壁の跡が見えたり、すぐ前に建っている家には西ドイツ(西ベルリン)に逃れるための穴が掘られていたり。スーパーに行くにも、元々壁があった場所をまたいで行き来するという生活の中で、自分が住んでいる部屋にも分断時代に誰かが住み、誰かの日常があり…ということを感じるようになりました。そうした経験を通して、自分の作品の中に歴史的な要素を入れることが、もしかしたらできるかもしれないと思い、歴史と個人の関係性を作品の中で扱うということに取り組み始めたように思います。
——それまでは、布に含まれた個人の記憶に関心を持っていたけれど、個人を起点にしつつも、その背後にあるより大きな歴史との関係を扱う視点が、ドイツ滞在をきっかけに生まれたということですね。
ベルリンに住んでいた時に、かつての紡績工場が美術館になった場所で展示をする機会を得ました。そこでベルリンという街の歴史に加え、布自体が持つ歴史に触れることができたことも、個人の歴史を超えて布の歴史、繊維工業や産業と布の関係性について考え始めるきっかけになりました。
——布は私たちにとって日常的なものである一方、軍事的なものとの結びつきもありますよね。広島市現代美術館が建つ比治山の近くにも、広島陸軍被服支廠跡という、布と戦争のつながりを感じさせる場所があります。ところで、傘をほどく作品も、ドイツ時代に初めて手掛けられたのでしょうか。
2008年に、当時の東京日仏会館で展示をしたのが最初なのですが、当時は傘を構成する8枚の布をほどいて蜘蛛の巣状につなげた、どちらかというと傘の形状に着目した作品でした。今回と同じような形で傘を扱ったのはドイツの時が初めてです。その時は、DDR=東ドイツ製の傘を使用しました。当時も蚤の市などで購入できたんです。東ドイツ製の傘を素材とすることで、かつて東ドイツに降った雨だったり、その傘をさしていた人を作品の中に見ることができるのでは、と考えて作った作品になります。傘をさす人とそこに降る雨ということで、場所性を意識し始めるきっかけとなりました。
ベルリンに住み、東ベルリンの家族の服や東ドイツの傘で作品を作ることで、ドイツの歴史を自分の作品に取り込もうとする一方、自分の国の歴史…というとすごく大きなことのように感じますが、自分の背景や歴史を作品に入れていっても良いのかもしれないと感じ、長崎の傘や広島の傘で作り始めるようになりました。ドイツでの暮らしと、年齢を重ねることで見えてくる家族の物語といったものがつながって、徐々に現在の視点や意識が作られていったように思います。
——家族の物語というと、戦争のお話などでしょうか。歳を重ねることで、昔のことを聞く機会が増えたり、昔は意識しなかったことが腑に落ちるようになることは、確かにあるように思います。
私の家族の間で戦争の話題が出ることはほとんどなかったので、限られた機会に聞いた話や遺品から想像するしかないことも多く、実際のところどうだったのかを確かめるようなこともしていません。ただこういった話は、真実を暴けばよいというものでもないと感じていて…
——家族の物語や家族の歴史に唯一の真実はないとも言えますよね。
歴史もそうですよね。立場によって状況の見え方も変わるし、何を事実と捉えるかも変わってくる。同じことを体験しても、共有された事実や真実というものは無いのかもしれません。
——すぐ隣にいても感じ方が違ったり、記憶が全く違うということも往々にして起こりますしね。そういう意味では、歴史や事実みたいなものも、平野さんが作品の中で探している、存在するかどうか分からない何かとつながっているのかもしれません。
確信はなくとも何かはある…
何か、霧みたいなもののようにも感じます。
——今回の展示についてもお伺いします。会場となったヱビデンギャラリーは、道路に面した、自然光の入るガラス張りの空間で、必ずしも展示しやすい環境ではない要素もあったと思います。今回の展示に際し、試行錯誤したことはありますか。
空間としての難しさは最初から感じてはいました。私自身は自然光の空間もガラスという素材も好きなのですが、これまでは作品を見る方に、作品に近づき体感していただくような展示の形態をとっていたので、今回のようにガラス越しに作品を見た時に、作品がどのように見えるのかという不安はありました。それから広島の「平和大通り」沿いの空間での展示ということで、場所が持つ意味についても考えました。
もう一つ今回意識した場所性として、私が現在住んでいる安芸太田町の戸河内との関係性があります。広島県内で「黒い雨」が降った場所を示す地図があるのですが、それによると戸河内はほとんど黒い雨が降っていない地域になっていました。隣の吉和も同様に。それでも黒い雨が降っていないとされている地域で黒い雨にあったという方の新聞記事があったり。そもそもこのあたりは水が豊富で、水を通じて地域がつながっている。そう考えると、黒い雨が降った地域やその影響を明確に線引きすることにどれほどの意味があるのだろうとも思い…。
これまで何度か傘の作品を作ってきて、「長崎」や「広島」の傘の作品もあるのですが、作品の中に黒い雨のイメージを入れられるかもしれないと思い、意識的に黒っぽい傘を選んで取り組んだのは今回が初めてです。
——先ほど歴史における真実は必ずしもひとつではないという話がありましたが、「黒い雨」についても真実はひとつではなく、また黒い雨についての「オフィシャルな歴史」自体も、時代を経て変わっていきます。大きな歴史上の出来事でありながら、その内側には多くの曖昧さが含まれている。平野さんは、作品を通して、そうした本質的な曖昧さに働きかける手法を探っているようにも見えます。
記憶や歴史といった実在がないもの、目に見えないものを扱う方法として、どういう手法が有効なのかについては、自分の中でまだ分かっていないことの方が多くて。自分が寝ている時の痕跡から始まり、他者の記憶、ドイツや長崎、広島といった場所の歴史というふうに、作品の中に含まれるものがだんだん広がっていっているという感覚はあるのですが、今回のように「黒い雨」や「放射能」といった話と、作品のより本質的な部分というのは、また違うところにあるようにも感じていて。そこにどう近づくかは自分でもまだはっきりしていないです。
——「記憶や痕跡」を扱う際にしばしば持ち上がる問題として、それが「誰」のもので、それを「誰が扱うことができるか」という当事者性の問いがあります。ご自身の記憶や痕跡から始まり、他者の記憶、場所の記憶へと広がってきた平野さんの作品は、そこにある記憶が「誰のもの」で「誰が語ることができるか」という当事者性の問いとは別の仕方で、曖昧な記憶に人々がアクセスできる回路を開く方法を探っているのかもしれません。
古着をほどいた作品、例えば横浜の肖像やニューヨークの肖像を制作していた時に意識していたのは「入れ替え」ができるということです。絵画や彫刻といった手法で、具体的に「誰か」を描くと、作品が「その人」にしか見えないということがあると思うのですが、私の作品には、対象を入れ替えることができるという特性があるように思います。それぞれの都市、それぞれの人にそれぞれの話があって、それを見た時に、見た人の記憶の中にあるものが作品に投影されるというか。作品が、それを介して見る人の記憶を引き出すものになったら良いな、と思っています。
——そこには「同一化への抵抗」という意識もあるのかもしれませんね。あるいは作品とそれが描く対象を「対」で結ぶことへのあらがい。記憶や痕跡という「アクセスする先」はあっても、そこに本当に何かがあるのかは分からない。その曖昧さはそのままに、アクセスする方法を試行錯誤しているように感じます。
そもそも分かりにくいもの、あるかどうか分からないものに形を与えようという意識がないのだと思います。そうではなく、ただ探している。よく分からないものを探すために作品を作っているように思います。そのせいか、「この作品はこういうものです」という強い何かや、「こう見てほしい」というのはなく、自分が見聞きしたり体験・体感したことから生まれたものを提示し、それを見た人が、その人の記憶の中から情景やイメージを紡ぎ出すことができたら良いな、と。「こうなんです」と言い切れない自信のなさもあるのかな、と思いながら、でも一方で「こうなんだ」と言い切りたくない気持ちも大いにあるように思います。
【プロフィール】
1975年長崎県生まれ、2003年広島市立大学大学院芸術学研究科博士後期課程を修了。古着の衣服や傘などを糸の一本一本にまで解き、結び直して再構成する繊細なインスタレーションを手がけている。主な個展に「記憶と歴史」(ポーラ美術館[神奈川]、2018)、「コイノボリ サカノボリ」(mm project[広島]、2017)、「Re-Dress」(SCAI THE BATHHOUSE[東京]、2012)など。主なグループ展に「交わるいと」(広島市現代美術館、2017)、「Textile ErinnerungenーRemembering Textiles」(tim| Staatliches Textil-und Industriemuseum Augsburg[アウグスブルグ、ドイツ]、2016)、「服の記憶」(アーツ前橋[群馬]、2014)など。
【展示情報】
平野薫「傘」
ヱビデンギャラリーでの「どこかで?ゲンビ」第3弾として、広島を拠点に活動する作家・平野薫を紹介します。平野は古着の衣服や傘などを糸の一本一本にまで解き、結び直して再構成する繊細なインスタレーションを手がけています。糸という素材に還元されることで可視化された時間は、作家が作業に費やした時間を示すだけでなく、人の記憶や衣服に染みついた歴史をも浮かび上がらせます。今回の展示では、広島の様々な場所で、忘れ物として保管されていた傘を譲り受け、それらを解いたインスタレーションを展示します。
会期|2022年4月29日(金・祝)~9月25日(日)
会場|ヱビデンギャラリー(広島市中区中町8-8)
※会期中無休、観覧無料
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