諫山元貴インタビュー
現在、広島駅南口地下広場のショーウィンドウにおいて展開されている諫山元貴「Objects #7」。「崩壊と複製」をキーワードに表現を行う諫山さんに、展示されているインスタレーション作品《Objects #7》を含む、作品制作についてお話を伺いました。
《Objects》シリーズについて
《Objects》シリーズの映像に用いている置物や既製品の中には、歴史的な人物である毛沢東やヒトラー、また狸の置物やだるまなど、様々なモノがあります。ここでは、だるまからヒトラーまでを区別なく並べることで、全てが「商品」という大量生産品になりうることを示そうとしています。モノを一つ一つ見ていけば、それぞれが崩れていく様子に叙情性が感じられたり、モノに付随するイメージや意味合いに引き込まれるかもしれませんが、並置することによってその叙情性が弱まり、そこに流れる物理的な時間へのアクセスが可能になるのではないか、と考えています。
《Objects #4》PHOTO: HOMMA Mihoko
「物理的な時間にアクセスする」ということ
そもそも映像は全く編集されておらず、モノが崩れる様子、具体的には土に置き換えられたモノが水中で崩れる様子を時間の経過そのままに映し出しています。そのような、流れるままの時間ってあまり意識しないものなので。《Objects》シリーズでは、鑑賞者は、並置して映し出されるモノの崩壊のイメージを通じて想像を膨らませたり、あるいは、他のモノへと視線を移して、また異なる崩壊の様を観察したりもします。作品を見ながら流れるままの時間に晒されることで、本来万人に与えられているはずの一定速度・一定方向に流れる物理的な時間へとアクセスし、そしてまた主観的な時間を感じる日常に戻っていくという循環をつくれないかと。
映像がループするという形式に切り替わっていったのは2017年頃でした。それまでの作品に壺を扱ったものがあるんですが、そこでの映像には初めから終わりがあります。壺が登場して、崩れていくといったように。《Objects》シリーズも最初は5〜7分の映像にしようと思っていました。そんなとき、美術館の外に出て展示をするという機会を得て、「終わり」ありきで時間をかけて見る作品より一瞬で見てわかるものを目指すようになって。そこでループするという、つまり始まりも終わりもない映像の中、あっちでは崩れているし、こっちでは浮かび上がってきているし、みたいなものをやろうというふうになっていきました。
止まっている時間を動かす
中学、高校ぐらいまで地域のお絵かき教室に通っていたんですが、絵を描く意味を見つけられずにいました。そんな中、ある日先生が出してきたドナルド・ジャッド (*)の画集を見て、救われた気持ちがしたという経験があります。モダニズムの行き着く先まで行った感じがすごくシャープに見えたんですね。以降、大学では彫刻を専攻することになりました。時間に関心を抱くきっかけとしては、僕が学部一年生のときに開催された、宮島達男さん企画の「世界アーティストサミット」(2005年)にスタッフとして参加した経験が挙げられます。それは、大御所の作家たちが、世界はアートで変わるのかということについて二日間かけて話し合うもので。文化といったものがどうすれば世界に影響するかについては、僕自身も昔から興味を持っていたんです。そこから、アートで世界が変わるということより、アーティストそれぞれが自分の問いを突き進め形にすべきだという考えに行き着き、「止まっている時間を動かす」という時間への意識が生まれてきました。
この「止まっている時間を動かす」ということを具体的に想像する手助けとして、パソコンがスリープしている間に人目につかず動きをループしているスクリーンセーバーが挙げられるでしょうか。また昔流行ったものに、魚が出現するデジタル・アクアリウムなどがありますよね。そこでは死なずに泳ぎ続ける魚が映し出され、ずっと同じ動きをしてループしています。そこで流れる時間は「死」という終わりが永遠に訪れない、いわば「止まっている時間」のようなもので。そうした完全性は、一見するとユートピア的な性質を持っていると言えます。しかし一方、変化のない閉じた円環のような時間はディストピア的な希望のなさと表裏一体で、ちゃんと終わりがないと救われないというか。例えば《Objects》シリーズの映像はループしていますが、一つ一つはモノが最終的に物質として壊れる瞬間まで収めることで、「止まっている時間」に終わりを据えることになるのかなと。なので、僕の作品における時間の扱いとは、時間の経過そのものが作品になることではなく、作品を通して時間を現前化させる試みにより近い感じでしょうか。普段流れ続けているはずの時間を、どのように意識させるかというのをやりたいなと思っています。
「個人」「社会」「世界」
先ほど挙げたジャッドも作品に大量生産可能な素材を用いているところがありますが、僕の作品も、ホームセンターや100円ショップ、お土産屋などで手に入る暮らしの中の日常的なモノを多く使っていて、例えば《Order》シリーズでは塩ビパイプが使われています。また構図はストライプという抽象的なイメージになっています。時間を意識させるにしても、どんなイメージを用いるかで、感じ方が変わってくると思っていて。例えば、遺跡や立像といったものが崩れたり朽ちていくことには、諸行無常のような、ロマンチズムと結びつく歴史のようなものを感じることが多いのですが、それが身の回りのモノに置き換わるとまた違ったフィルターがかかってくるわけです。そこに何が映っているかによって、意識させたい時間がどのようなものになるかは変わってくるのではないかと。ただ人それぞれなので、身近なモノの崩壊をロマンチックに感じる人も、そうでない人もいるのでしょうけど…。「崩壊」というのも、無慈悲だからこそ誰でもアクセスできるものではないかと感じます。それに不快感を覚える人もいれば、癒しを感じる人もいるでしょうし。少し飛躍した言い方になるかもしれませんが、「個人」「社会」「世界」という三つがあるとすれば、作品を通じて「個人」的な物語、「社会」のシステムや歴史を感じつつも、それらの向こう側にある「世界」という、ある種ドライだけど普遍的なところまで一気に行けないかなという感覚を持っています。
《Order #6》
ヒトラーから狸の置物まで
例えば、《Objects》シリーズで登場するヒトラーのイメージの向こう側にはファシズムを含む様々な歴史を想起できるし、狸の置物も、それがどういった場所に置かれているかによって色々な物語が想像できますよね。しかしそういった、イメージに内包される質的な部分を掘り下げるといった態度は、自分の作品にはないと思っています。個人的な関心はありますが、作品的には入れない方がイメージの空っぽさ、フラットさが強調できるので。ただ、アート・ドキュメンテーションやリサーチ・ベースの作品に見られるような、質の部分をどう扱うのかという点で実直な態度を示すものと、商業主義や消費主義における、ある種加速しきった空っぽさみたいな、実直とは対極にあるようなものはどっちもあってしかるべきだと思います。そこをキュレーションするのはキュレーターや作家なんだけれども、僕としてはそこは明快にせず、解釈は委ねたいなと。
《Objects #4》PHOTO: HOMMA Mihoko
《Objects #7》について
今回の作品《Objects #7》がこれまでの《Objects》シリーズと異なる点の一つとして、植物をプラスしたことが挙げられます。鉢があって、植物があって、植物育成ライトが当たっていて。すごくゆっくりなので分かりづらいのですが、植物が成長する時間と水槽の中でモノが崩れていく時間が、その流れは対比的(かたや「生」のベクトルを持つ成長と、「死」へと向かう崩壊)でありながら、時間としての営みを扱う点においては似ているとも言えますね。あとは、映像を映し出すマス目も増えているのですが、イメージと化したモノが、数としてより多く並置されることで、どんどん増殖していく資本主義の不気味さみたいなところが強調できればとも思います。
広島駅南口地下広場ショーウィンドウで展示中の《Objects #7》
作品に植物を初めて使ったのは、2017年のBankART1929(横浜)での展示で、そのときは会場にもともとあった観葉植物を使用しました。でも自分の中で納得いかないところがあって、そのあと2年くらい(そのアイデアは)横に置いておいたんです。ところが、観葉植物って、英語ではオーナメンタル(ornamental)、つまり「装飾的な」という形容詞を伴ってornamental plantsと言うそうなんです。普通に生きているものでさえ、「装飾的な」という言い方をするんだ、と。それなら、作品が扱う大量生産品や取り替え可能という概念においても齟齬はないかなと思い至りました。そこから植物の育成を促す照明との組み合わせも出てくることになります。
美術館ではない場所で展示するということ
《Objects》シリーズをループ再生にし、エンドレスな映像にしたきっかけの一つに、美術館などではない場所でどう展示し得るか、ということがあります。それは先ほど話をしたように、たまたま観る人に対して少しの時間で分かる映像にすることと、時間を感じさせない美術館ではなく様々な時間が流れる都市の中にどうすれば別の時間軸を介入させることが出来るのか、ということに繋がります。そして、《Objects》シリーズはマス目状の棚に商品が陳列されているような見え方も意識しています。今回はショーウィンドウという、パッと見たときに商品イメージを伝える役割のある場所で、近くに寄ると予期せぬ時間が与えられるというか、そういう場所性にも可能性を感じています。
*——ドナルド・ジャッド(1928-1994年)は、アメリカ、ミズーリ州生まれ。コロンビア大学で哲学と美術史を専攻した。はじめは絵画を制作していたが、作品から物語的な意味や遠近法などによるイリュージョン(幻影)を排除していくなかで、興行的な素材を用い、単純化された構造を持つ立体作品をつくるようになる。アメリカで1960年代から70年代半ばにかけての主要な美術動向となった「ミニマル・アート」の代表的な作家。
【プロフィール】
諫山元貴(いさやま・げんき)
1987年大分県生まれ、広島市在住。2009年京都造形芸術大学美術工芸学科総合造形コース卒業後、2011年広島市立大学大学院芸術学研究科博士前期課程修了。 2014年吉野石膏美術振興財団在外研修助成にてベルリンに滞在、Studio Haegue Yangのレジデンスプログラムに参加 。主な展示、受賞歴に「Dummy」(EUREKA、福岡、2020)、「NONIO ART WAVE AWARD 2019」グランプリ、「ゲンビどこでも企画公募2019」(広島市現代美術館)入選・観客賞、「BankART LifeⅤ~観光」(BankART Studio NYK、横浜、2017)、「Sights and Sounds: Japan」(The Jewish Museum、NY、2016) など。
https://g-isayama.tumblr.com/
【開催中の展示】
諫山元貴「Objects #7」
「崩壊と複製」をキーワードに、制御できない出来事によって物質が変化していく様子や瞬間を、映像や立体で表現している作家、諫山元貴が、既製品の成形型でつくられたオブジェクトが水中で崩壊していく様子を物理的時間のまま再生する《Objects》シリーズから、ショーウィンドウ内でのインスタレーションを繰り広げます。地下空間で出会う、気鋭の若手作家の作品に是非ご注目ください。
会期|2021年5月10日(月)~9月12日(日) 7:00~22:00
会場|広島駅南口地下広場ショーウィンドウ(広島市南区松原町9-1)
※会期中無休、観覧無料
・関連映像上映
《Order #6》
会期|開催中~9月12日(日) 10:00~20:00
会場|紙屋町シャレオ・中央広場ビジョン(広島市中区基町地下街100号)
※1日に数回ご覧いただけます