比治山の東側に広がる段原地区を訪ねました | Untitled Vol.4
比治山の陰になったことで原爆による壊滅的な被害を免れた段原には、昔ながらの路地が続く下町的な集落が残りました。しかし都市インフラの改善や防災上の観点から大規模再開発の対象となり、1970年代末から40年余りをかけて現在の新しい町に生まれ変わりました。そんな段原で地域の清掃から昔の様子をまとめた冊子づくりまで幅広い活動を行う「段原おやじの会」の会長の妻木真和さんと、事務局長の田尾正さんに、段原の昔と今、そしてこれからについてお話を伺いました。
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田尾:「段原おやじの会」ができたのは平成25年の12月なので今年で8年目ですね。以前から段原に住んでいる方が中心になっていますが、基本的に誰でも参加できる緩やかな集いです。私も仕事で段原との関りが生まれ、その後引っ越しを機に参加しました。
妻木:当時「段原グルメマップ」をつくっていた方たちが、マップ完成後に「このまま解散するのはもったいない」とつくったのが「おやじの会」です。私は呑み会に誘われ、そのまま会長に据えられてしまっただけなのですが(笑)、実際、気軽に集まれる場所ってあるようで無く。会にすることで、言葉を交わし思いを出し合う場が生まれたと思います。
おやじの会によって、比治山に植えられた桜
段原のシンボルとしての比治山
妻木:会が立ち上がり、実際に何をしていくかを話していく中でテーマに挙がったのが「比治山」です。僕らにとってはやはりシンボル的な存在なので。まず月に一度の比治山清掃を始め、当時植木屋をしているメンバーがいたこともあって、比治山に桜を植える事業を行いました。僕らは比治山で遊び、育ってきたので、自分たちを育んでくれた場所に「育み返し」をしたい、という思いもありました。
当時段原の子どもの遊び場といえば、路地裏か山(比治山)、それか駄菓子屋という感じでした。話していると思い出しますが、当時松田重次郎の銅像があった辺りには、蛇が多かったんです。でもカブトムシやクワガタが採れるから、危険を冒して行っていましたね(笑)。小学校の遠足かなにかで比治山に出かけた際に、誰かがふざけてアオダイショウを掴んだら、巻きつかれて大事になったりね。今の御便殿広場の辺りは、一時ちょっとした動物園のようなものがあったそうで、僕らが小さい頃は大きな鳥籠状の檻が残っていました。動物園時代の写真が無いか、色々な方に聞いてまわったのですが、まだ見つけられていません。
僕らが小さかった頃は、樹木がまだ小さかったこともあるのでしょうが、比治山は明るくて人の手が感じられる場所でした。それが今はどこか荒れた雰囲気になってしまったように感じます。とても思い入れのある場所なので、大事に手入れをして、自分たちの仲間や地域の人、子どもたちといつでも集える場所にしたいんです。
再開発前の段原の姿を記録した冊子
段原のビフォー/アフター
田尾:昔の段原はほとんど知らないのですが、一度友人を訪ねて車で来て、路地に迷い込み往生した記憶があります。再開発後の町に昔の面影はないのですが、冊子『だんばらー段原村のまちー』をつくったことでとても勉強になりました。
妻木:確かに、昔の段原は家や通りなど整備されてはいなかったですね。でも「生活の聞こえる町」でもあって、それが魅力でした。よくも悪くも隣近所の距離がなく、会話は筒抜け。近所の人から怒られることもあるけれど、「おやつ食べて行きなさい」と声をかけられることもあって。「向こう三軒両隣」とよく言ったものですが、近所の繋がりが大切にされていたと思います。
田尾:再開発後の段原は綺麗でインフラも整っていて、実際、とても住みやすい街だと思います。自転車でどこにでもいけますしね。マツダスタジアムで試合がある日は、真っ赤なユニフォーム姿の人がたくさん歩いていて、それもまた段原の風物詩のように感じています。
かつての段原本通り(県庁通り)の風景 段原中央市場付近
地縁とこれからの縁側文化
妻木:住みやすいと言われる理由の一つに、人のつながりがまだ生きていることもあるのかな、と思います。町内会が機能していたり、地域のお祭りが残っていたり。段原は、都心にありながら「地縁」が残る地域ともいわれますね。昔からの人がまだ住み続けているからかもしれません。僕にとっては、いい意味で「面倒くさい」町でもあります(笑)。仕事をしていてもすぐ「真和君や」って呼ばれるしね。でも50歳を過ぎても名前で呼んでくれる人がいることにホッとします。そういう関係って町に必要なんだと思います。
田尾: 地縁が強いと新しく入ってきた人にとっては入りにくい側面もあるかもしれません。でも顔を見せておけばそのうち知り合いになるし、そこは新しく来た人も努力をしたい所ですね。
かつての南段原町 駄菓子屋さんの風景(現在の段原二丁目付近)
妻木:これからは、段原の歴史やつながりを次の世代の子どもたちにつないでいく仕組みをつくっていきたいですね。冊子『だんばら』をつくったのも、再開発で消えてしまった昔の痕跡を、次の世代に残したいという思いからです。高齢の方から伺った原爆の話など、この本に含められなかった話もたくさんあるので、それもいずれまとめたいと思っています。
加えて今考えているのは「縁側構想」ですね。昔の段原には縁側のある家が何軒かあって、そこにいったら誰かがいたんですよ。井戸端会議と縁側の文化って似ていると思うのですが、特に示し合わせていなくても、そこに行けば誰かがいるという場所が、昔は町の中にあったと思うんです。私が子どもの頃のそれが比治山でした。今後、比治山がまた僕らにとっての縁側になると良いなと、色々考えているところです。改修後の美術館も、近所の人たちにとって、気軽に立ち寄ったり集ったりできる場になると嬉しいですね。
段原生まれ・育ちの会長・妻木真和さん(左)と、再開発後の段原に引っ越してきた新住民の事務局長・田尾正さん(右)